学校嫌悪。 [たとえ話]
人間がその土地その土地の風土に合せて生きる……もし
もそれとまったく同じ次元で(直に生き方だけを教えている
ような)教育があるのなら、そこでは
「学校に対する嫌悪」
のようなものは、ほとんど生まれてきません。
誰かと一緒に何かを学ぶときに
(こいつはイヤだ)
とか
(あいつにひどいことをされた)
とかいった恨みつらみがうまれるにしても、それはその誰
かに対する嫌悪や怒りであって
(教育が悪い)
だの
(学校が悪い)
といった話にはなりません。
学校嫌悪とか教育に対する恨みとかが出てくるのは、単に
(学校でイヤな目にあったから)
ではなく、学校が持っている
(強制の要素)
教育が人間の生き方を決めていこうとする、その意図性に
反発するからでしょう。
人間同士には、合う・合わないの問題がありますから、ただ
(学校という場所で嫌なことがあった)
というだけなら、学校の存在はほんのキッカケで、それ自体
は問題になりません。
でも、学校が意図的に子供たちを集めて、或る型を強制する
組織になると、生徒同士の間で起こるイヤなことと、学校の
存在そのものとが段々ひとつに重なってきます。
【 相談できて、腕がいい。】
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