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ズレの形。 [たとえ話]


(周囲が見ている自分)



(こうでありたい自分)

との間にズレがあるとき、その形を考えてみましょうか。




周囲は自分のことを

(面倒なことを言わないキャラ)


とか

(真剣な論議にはほとんど縁のないキャラ)

と見ているが、自分はそんなことはない……と常々不満に

感じている、としましょうか。




その場合の不満とは、単に

(自分の持っている能力の或る分野を認めてもらえない)

という不満ではなく

(どことなく下に見られている)

という憤りが含まれたものかも知れません。




もしもそれが

(下に見られている)

のではなく、逆に

(敬意を持たれている)

ようなら、このズレの意味は能力というものについての考え

を根底から変えてしまうかも知れませんね。




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こうでありたい自分。 [たとえ話]



人から

「こんなことやってみてよ」

と言われ、それをやってみたら

(そこからどんどん世界が広がっていった)

とか、結果的には

(人生観が変わってしまった!)

とおっしゃる方はたくさんいます。




その反対に

「自分のことは自分が一番よく分かっている。それが当然だ」

とずっと考え来て、どこかで躓かなかった人というのを、わた

しは一人も知りません。




自分のことを、一番良く分かっているはずの自分が、ちっとも

自分の可能性を拡げられないのはなぜでしょう?




(こうでありたい自分)

とか

(人からこう見られたい自分)

というものに、誰もが最初から縛られてしまうからでしょう。




(自分のことは自分が一番よく分かっている)

(そうして自分は自分の意思でこれをやることにした)

(そのために自分は努力を続ける)

と言えば、表面的にはちっとも間違っていないということに

なります。




そうしてその結果がどうなるかと言うと、やがて

(自分で自分の間口を狭めてきた自分)

というものに気づいて愕然とします。




どうも人間は、このギャップ……つまり

(こうでありたい自分)



(周囲が実際に見ている自分)

とのズレに長く苦しみ続けるようです。



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        【 話し相手が欲しいとき。】


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地位とかお金とか、世間の喝采とか。 [たとえ話]



友達や知り合いが、まるでちょっとした思い付きのように

「あれをやったら?」

とか

「こんなことやればいいのに」

と言ってくれる。




そういうことの中に

「自分がいったい何をして世の中の役に立てるか」

ということのヒントがきっと含まれています。




でも、たいてい若いうちって

(人の役に立ちたい)

なんて思わないもんですよね。




むしろ社会的な地位とかお金とか賞賛を得ることを当然の

目的として

(自分を発揮したい)

と思うでしょう。




でも実は、ここに思考法のワナみたいなものがあって、そう

いう風に思うときの

「自分」

っていうのは

(社会的な地位とかお金とか賞賛が得られるとしたら)

という前提で、最初から絞り込まれた自分なんですね。




他人に相談したとしても、その相手がやっぱり

(社会的な地位とかお金とか世間からの喝采)

とかが第一に欲しい人であれば、結局その可能性からしか

あなたの力を評価できません。




ところが、それなりに親しい誰かが日常的にふと

「あれをやれば」

とか

「こんなこと、やってみない?」

などと軽い調子で言ってくれるときには、普段から自分が

自然に発揮しているものを、ぼんやりとであれ認めた上で

そう言ってくれています。




これってけっこうスゴイことだと思います。



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        【 親知らずを抜くと、腫れますか?】


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変な宗教……「自分教」。 [たとえ話]



若い頃は、ひとから

「あれ、やってくれない?」

とか

「これをやって欲しいんだけど」

と言われても、それが実は

(自分のことでもある!)

なんて、1パーセントも考えられませんでした。




依頼をしてくる友達が、ただ彼らの欲求を満たすためにこっ

ちを利用するんだ……と思っていました。




だから

(こっちだって、いつかはあいつを利用するかも知れないし)

という、ギブ・アンド・テイクの発想でしか引き受けてこなかっ

たと思います。




あるいはその頼みごとをしてきた友達が大好きなヤツだから

(まあ、しょうがないか)

と思って、それをやる。




ところが、それなりに親しい誰かが自分に何かを頼みに来

るとき、実はすでに相手がこちらをよく見ている(あるいは直

感的に何かをとらえている)ということが、きっとあります。




その誰かが露骨にこちらをダマそうとしたり、冗談でノセて

しまおうとしているのでない限り、自分が普段こちらから与

えているものを踏まえて、その頼みごとなり提案がやって

きます。




が、いつでも

(自分、自分、自分、自分……)

と思っていると、それが見えません。




まず自分という確固とした存在があって、その自分が誰に

も強制されず自分の意思でなにをやるか決め、そのために

たった一人で努力していく……(どうだ、文句あるか)という

「正しい人間の形」

みたいなものが、わたしの頭にはずっと刷り込まれてきた

と思います。




でもこれは、息苦しくて妙な宗教……「自分教」みたいなも

のかも知れません。



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        【インプラント、本当の話】


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勝たなくても全然オーケー。 [たとえ話]



「努力する」

というのは、今の世の中では良いことに決まっています。




わたしも日常の会話では当たり前に使っています。




大多数の人が使う言葉を、ほぼ同じ意味で使って、それで

話が滑らかに進んでいく面があるなら、あえてそれに逆ら

わなくてもいいと思います。




けれども

「努力するのは良いことだ」

という考え方には

「努力して勝つのはいいことだ」

という発想がすでに刷り込まれています。




このことはどうしても意識させられます。そうしてわたしは口

では

「努力しますね」

と言いながら

(勝たなくても、全然オーケーです)

と心の中で思っています。




そうしてその根拠になっているのは

(自分が意図して、自分の力だけでやっている)

ということよりも、どちらかと言えば

(まわりに求められてやり続けていること)

の方が結果的に遠くまで、確実に進むことになるから……

という実感です。


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     【インプラント、本当の話】

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ウソに踊らされない。 [たとえ話]


いまの時代も

人を出し抜いて勝たなきゃ意味がない

という方向に人を駆り立てているウソが幾つもあると思いま

す。




というより、学校の基本は今でもやっぱりそれですよね。




けれどもそういうウソを一々指摘して行くことは、実は根本の

ところで間違っているのではないか……という気がします。




前回の書き込みで、時代のウソを指摘することについて

「そう叫んだ自分の正しさがいずれは証明される……とい

うこと以外には、このことに何の取り得もないような気が」

するとわたしは書きました。




これは

正しさが証明されること → 勝利

という考え方が、それも結局は人に勝たなきゃダメという発想

に縛られている、ということです。




時代のウソに気づくということは、もともと

「正しい自分」

を証明することに意義があるからそうしたわけではなくて、ウソ

に踊らされない方が幸せになれる……ということなのです。



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     【 歯科のこと、知っておいて損はありません。】



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ウソを証明しても空しい。 [たとえ話]


むかしはこんなウソがまかり通っていた

ということで、前の時代の考え方を全面的に否定したい気

持ちは、正直わたしの中にありますが、それでもやはり

まてよ

と思わざるを得ません。




というのも、そうした時代の風潮が作り出したウソは

(その時代を生きる人々の役に立っていた

という側面も確かに持っているからです。




そこには

(ウソで人を駆り立てていた)

という面がある一方で

そういうウソで現状を納得できる人がいた

ということでもあります。




だから、仮にわたしが、四十年以上前のニッポンに戻って

「サル山のボス争いだとかピラミッド型の社会なんてウソな

んだよ!」

と叫んだとしても、それは空しいでしょう。




そう叫んだ自分の正しさがいずれは証明される……という

こと以外には、このことに何の取り得もないような気がし

ます。




実際にその時代に生きて

(競争こそが正義だ!)

という風潮に振り回されないということは、必ずしもこれがウ

ソだと証明することではないでしょう。




むしろそうした証明にこだわると、結局はその時代の論法に

からめとられてしまうのではないでしょうか?




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サル山の嘘はバレても。 [たとえ話]


野生の状態ではピラミッド型社会を作らないニホンザルを

サル山に閉じ込めて、そこに現れたピラミッド型社会のふ

るまいを

(サルだって同じなんだ)

として、自分たちを納得させてきた日本人。




二つのことが言えるのではないかと思います。




ひとつは、わたしたちは自分たちが潜在的に見たいと思っ

ているものについては、それがどんなに怪しいものであっ

ても、表面の辻褄さえ合えば

(ほら、これが現実だ!)

と言って、ありありと目に見てしまう……ということ。




もうひとつは、競争競争で人々を追い立てて成果を出して

いこうとする社会は、かつてはいまよりもっと圧倒的な力を

(魅力も含めて)持っていたらしい……ということ。




むかしサル山について言われていた

(もっともらしいウソ)

は、いまではすっかり通用しなくなっています。




けれども、サル山以外のことでは、いまのわたしたちもやは

り、ほんとうは現実でないものを

(これが現実なんだ!)

と言って納得してしまっているに違いありません。



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ピラミッド型なんかじゃない。 [たとえ話]


おサルさんたちの世界も、厳しい競争が基本です……と

いったナレーションを聞きながら

(なるほどなあ……)

と思いつつニュース映像に見入っていた小学生のわたし。




ところが、野生のニホンザルの群れには、ボスを頂点にし

たピラミッド型の社会などは実は観察されない(!)という

ことが後に明らかになります。




サル山で見られるピラミッド型社会というのは、人工的な

環境に閉じ込められたときにだけニホンザルが見せる行

動のスタイルらしいのです。




野生の群れでは、ボスザルはいても必ずしもリーダー的に

ふるまわないし、彼らの日常の行動からも典型的なピラミ

ッド社会型の序列などはうかがえない。




すると、サル山にニホンザルを閉じ込めて観察している人

間というのは、いったい何をしていることになるのでしょう?




それは、人間が初めから

「自分たちの見たいもの」

を動物社会に勝手に投影して

(動物だってそうなんだから)

と自分たちに言い聞かせている……ということになるでしょう。



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     【ご質問にお答えして】



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生き物はみんな競争する? [たとえ話]


若大将シリーズと怪獣映画の抱き合わせ上映を観に行っ

て、小学生のわたしが今も記憶しているニュース映像。




それは、サル山でのボス争い……の話でした。




サル山では、その集団のトップに君臨するボスの居場所、

ナンバー2の居場所などが決まっていて序列のハッキリし

たタテ社会の構造が見える、というのです。




しかも、一度手に入れたボスの座も、ナンバー2もしくはナ

ンバー3からの挑戦を受けて、いつ奪い取られるか分から

ない。




だからサル山のボスも、常に自分のパワーを誇示したり、

メスザルたちからの人気(サル気?)を保つ努力をしたりと

決して傍目に映るほどラクじゃない……そういう意味のナ

レーションがサル山の映像に重なっていました。



(ああ、生き物はみんな競争するんだよなあ)

というような感想を持ちながら、そのニュース映画を観てい

た記憶がわたしにはあります。




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     【 鼻から牛乳が……。】



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