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若衆(宿)は学校か? [たとえ話]

たとえば、昔の日本のある村落で……十四、五歳になった

男子が「若衆(宿)」の組織に入る。




入って何をするかと言えば、同じ村の年上の若者たちから

(もう子供ではなくなる)

という意味での儀式を授けられたり試練を与えられたりしま

す。




もしもこれを

(学校に似たもの)

と見た場合には、わたしたちが科目として知っているような

勉強のない学校だ、ということになります。




逆にこれを

(学校とは全然違うじゃないか!)

と見たときには、学問のような体系づけられた知識の習得が

ない……というところを問題にしていることになります。




生き物としての人間には、当然のように成長というものがあり

ますが、そういう自然の過程としての成長に対して、人間の側

からある方向づけをする……それが広い意味での教育であっ

て、その場所を学校と言う。




このことを前提に考えるなら、近代以降の、わたしたちがすぐに

思い浮かべる学校も、近代以前の若衆(宿)も、どちらも共に学

校であるには違いないでしょう。



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        【益田ミリさんファンクラブ】


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昔の学校。 [たとえ話]


近代以前の日本の学校……と言えば、わたしなど

「寺子屋」

という言葉をすぐに思い浮かべますが、それは城下町のよ

うな都会での話でしょう。




たしかに都会では、近代以前でも

「藩校」

のような武士階級に学問を授ける場所があって、その一方

に、読み書き・そろばん……と言われるような初歩の職業

教育の場所として

「寺子屋」

があった、という風にわたしは理解しています。




といっても……これは、きちんと調べて書いてるワケじゃない

ので、おかしなことを言っていたら、どうぞ突っ込んでやって下

さい。




で、近代以前には日本の人口の7~8割が農民だったとすると

その農村で、子供たちが育っていくときにどういう形で学んだか

と言えば、十五歳前後に達した若者が

(若衆)

とか

(若者組)

といった組織に加わることが多い。




今風に言えば

「若者の自治組織」

のようなものが、決まりや運営はそれぞれに違っても各村落

にあることが多く、これに加わることが大人への階段を上るこ

とだった。



むろんこれは、今の学校のように

(誰もが行くところ)

とは限らず、また現在わたしたちが考えるような学問なども

しません。



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学校という洗脳。 [たとえ話]


学校って、結局競争するところじゃないか。勉強が第一だ

ろうけど他にもとにかく何やかやと競争する……そういう場

所が学校だ……と思い込んでいたのが

(競争とはなんだか関係がなさそうな)

そんな友人が出来てみると、見方が変わる。




ほとんど勉強をせず、その他のことでもあんまり競争をしな

い……それでいて、やっぱり確かに何かの魅力がある友人

が、当たり前のように学校に通ってきていることの不思議さ。




そういう不思議さを一度でも感じたら、それはもう

(学校という洗脳)

が解けていくキッカケだと言えます。




競争の場所……として刷り込まれた

(学校の観念)

に、実は何か異質なものが含まれているような、意識の深

いところでの発見です。



もちろん

(人間はみんな学ぶじゃないか)

という意味での勉強と、その決まった場所(つまり学校)が

あるのは何も問題ではありませんけれど、わたしたちがす

ぐに思い浮かべる学校の形は

(近代という時代の価値観)

を反映したものです。




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     【 え? エレベーターで歯を抜くんですか?】
 
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ひょっとしたら、違うのか? [たとえ話]


学校へ行っていい成績を取るとか、勉強以外でも、なにか

良い意味で目立つことが出来ればそれはイイに決まってい

る……と思い込んでいる誰かが、自分のすぐそばに、まった

くそういう考えでは生きていな誰かの存在を認めてハッとす

ることがあります。




みんな学校に来てるんだから

(どうせ目立ちたいに決まってる)

良い成績が取れるんなら

(誰だって一番になりたいに決まってる)

と思い込んでいたのが

(いや、ひょっとしたら……違うのか?)

と思わせる、そういう人物を身近に発見してしまうのです。




それまでは、目立たないヤツは

(目立てないから諦めてるだけだ)

とか、成績が悪くてもニコニコしてるようなヤツは

(どうせ無理と知ってるから、ごまかしてヘラヘラ生きてるん

だろう)

と思っていたのが、そうではないのかも知れない……という

気になってくる。




これは例えば、実際にそういう友人が自分に出来たときに

浮かぶことの多い考えです。




そいつは勉強も出来ないし特技もなさそうなので、何となく

ナメた気分で近づいて行った。




が、いったん友達になってみると、逆に

(どこかで自分の価値観が覆されるような)

そんな驚きを、ときどき感じてしまう……というようなケース

です。



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     【 ことばのセンスに脱帽です。】


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見えなくなってしまうもの。 [たとえ話]



都会でも学校でも、行きたい人が勝手に集まってくるんだ

……無理に集められたり詰め込まれたりしてるワケじゃな

い。そうとも言えます。




でも、いまの世の中で当たり前のことは、何百年も前には

ちっとも当たり前じゃなかった。

(そんなの比較できないじゃないか!)

あるいはそもそも

(そんなのを比較しても意味ないじゃないか!)

って思われますか?




何百年前でも、或る土地の人間にはそれほど変わらない

センスがあって、ただそれは、時代の風潮の中で表によく

現れたり、反対に隠れてほとんど外からは見えないくらい

になってしまうこともある……とわたしは考えています。




都会に人が集まってくることや学校に人が集まってくること

には

(いまの時代の日本ではどうしてもそうなってしまう)

という必然があります。




が、また

(都会はときどき息苦しくなる)

とか

(学校は窮屈だ)

という感じ方の中には、非常に古い感覚も含まれているこ

とがあります。




何にでも良い面と悪い面があるから

(都会生活も、便利な反面息苦しいのは当然だ)

という風に割り切ってしまうと、見えなくなってしまうものが

あると思います。



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誰が人間を閉じ込めるのか? [たとえ話]



それぞれ別の場所にいた人間を、ひとつの場所

・空間に閉じ込めると

(バラバラに勝手なことをやり出す)

ように見えるんだ。




と、前の記事で書きました。




すると、じゃあなんで人間は

(ひとつの場所とか空間に閉じ込められるの?)

っていう疑問が出てきませんか?




この、ひとつの場所とか空間……っていうことから、わたしは

「都市」

とか

「学校」

とかいうものを連想しているんですが。




(うそ!)

って思う人もいらっしゃるでしょう。




だって人間は勝手に都会に集まってくるんで、別に閉じ込

められるわけじゃないゾ……って。




学校だって、みんな自分から入りたがってるじゃないか。誰

かがそこに人間を閉じ込めているわけじゃないだろう、って。



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  【益田ミリさんファンクラブ】

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論議じゃなくて、雰囲気で。 [たとえ話]


人間ってやつは、放っておくとみんな勝手放題のわがまま

をやりだしてどうしようもなくなるんだ……っていう理屈、わ

たしもずうーっと長い間、縛られてきたと思います。




(だからルールは絶対に必要なんだよ)

って上から説明されるとき、必ずと言っていいくらいその理

屈が毎回持ち出されるのに

なんか……どっか……おかしいような……

と思うことはあっても

「それは違う!」

とハッキリ言うことなんて、到底できない状態でした。




つい最近まで、そうでした。




でも今は、割合に自信をもって

「それは違うと思う……」

と言えます。




自信をもって

「思う……」

はないだろ、って言われるでしょうね。




そうなんです、確かにこの期に及んでも、我ながらピリッと

しないんですけど。なるべくなら論議じゃなくて

雰囲気で分かってほしい

という……意気地なしだから。




人間が

(てんでんバラバラに勝手なことをやり出す)

っていうのは、実際のところは、こういうことなんです。




もともと、それぞれ別の場所にいた人間を、ひとつの場所

とか空間に閉じ込めるというか、押し込めるというか……そ

ういう状態にすると、やがて

(てんでんバラバラに勝手なことをやり出)

します。




人間がもっとバラけた状態で存在していると、それぞれの

行動は別々でも、他と衝突するほど勝手放題になんかな

らないのです。



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【相談できて……腕がイイ。】



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ルールで上から縛る。 [たとえ話]


じゃあ、おおやけ(公)ってどういうことで、何が「公的」だと

か「社会的」ってことなのか……って言い出すと、まあ、ず

いぶんカタイ話になっちゃうけど。




そもそもは

(みんなにとって大事なこと)

っていうのが学校で、というか教室で、植えつけられるでしょ。




誰かルールに従わない子がいると

(ああいうのは、みんなの迷惑になるから、しちゃいけない)

っていう風に。




逆に言うと

ルールで上から縛っちゃえば、みんなが似たような行動を

とるから楽)

っていうか。




でもそれは

(ルールがなかったら、みんな好き勝手にデタラメなことしは

じめちゃってどーにもなんない

っていうのが、もう前提になっちゃってるでしょ?




実はそのこと……疑ってみてもいい、と思います。



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【 歯科の治療……知っていれば後悔しません。】


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公(おおやけ)という強制。 [たとえ話]


或る方向に人を動かそうとする……っていうのは、個人的

な人間関係だけじゃなくて、仕事の場所とか地域の会合

であるとか、それからマスコミの報道なんかでも見られる

現象ですよね。




個人的な人間関係で

(アイツはすぐ、自分の思い通りに人を動かしたがるんだ

よなぁ)

というようなことがあれば

(きっと、そういう育てられ方をしたんじゃないか?

といった想像も働きます。




しかし、公の場所とか集まり……それからニュースなんか

では

(単にひとりの人間が、或る方向へみんなを誘導している)

という風に見えることは稀でしょう。




むしろそういう場面では

(これはみんなの問題じゃないか)

といった建前に誰もが縛られてしまいます。




でも、そうだからこそ怖い……と、思いませんか?




だって、そこでは

(関心がない)

とか

(別に意見はありません)

とかいうことが許されないんですよ、本当のところ。




関心がない

は無教養であるとか、視野が狭いというレッテルを貼られ

別に意見はない……

だと、まるで頭が悪いかのように見なされる。




具体的な人間関係の場合は、自分の思い通りに相手を動

かそうとする人物に対しては

関わらないようにする

とか

無反応でボーッとしている

ということが出来るのに、公の場だと、とたんにそれが許さ

れなくなってしまいます。




当たり前じゃないか、と思われますか?

「だって、それが公(おおやけ)ってもんだろ」

というように。



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   【プラークって、食べかすじゃなかったんですね……】


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なぜ、思い通りに人を動かしたいのか? [たとえ話]


そもそも

思い通りに人を動かしたい

っていう欲求は、どこから出てくるんでしょうか?




たぶん人から

あれをやれ。これをやれ

と言われて逆らえずにそうする……というような体験が、

まず最初にあるんじゃないでしょうか。




つまり、逆らえない誰かからの指図を、嫌々受けているこ

との裏返しとして

(こっちが相手を思い通りに出来たらいいのに)

という欲求になっていくのではないか……と思います。




けれどまた、ちょっと考えると

(人から指図を受けて動くのはイヤだから、こっちも相手に

は指図をしない

という反応の仕方だって自然に存在していることが分かり

ます。




これは要するに、人から動かされるという経験の

(根の深さ)

の違いみたいなところから来るのでしょう。




人から意図的に動かされてしまうという経験が、無意識に

近いところまで深く及んでいればいるほど、当然のように、

その裏返しの行動が出てしまう。




やられたからやり返す……という論理で、人のことも意図的に

動かしてみたい、というわけです。



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【 週にいっぺん、歯の話。】


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