大きな世界を知って、幸せですか? [たとえ話]
昔の若衆宿のような所では、その村なり集落が
(第一の世界)
になります。
このことを、近代の教育制度で育てられたわたしたちから
見ると
(要するに大きな世界を知らないんだ)
とか
(閉鎖的な集団の自己満足じゃないの)
といった風にどうしても見えてしまうかも知れません。
しかし、大きな世界を知らない……というのは、その必然が
なければ、それはそれですごく自然なことでしょう。
人や物、それにともなう情報の交通がごく限られていて
(向うには、よその世界もあるんだよ)
という程度の認識で済む社会は、そういう環境である限り、
人間が育っていくことに関して、これまで積み重ねられてき
た経験的な知恵を信頼していられます。
ところが、人・物・情報の交通が激しく、それらについてつね
に注意を払っていないといけない……というような社会では
人間が育っていくことについて
(人から遅れてはいけない)
とか
(出来れば人を出し抜いて先へ行った方がよい)
という、急き立てられるような状況が当たり前になってしまい
ます。
すると、大きな世界を知っていて、閉鎖的ではない(開明的
である)はずのわたしたち近代教育を受けた者が、この
(大きな世界)
に、実は喜び以上に苦しみを感じている……
といったことも起こります。
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